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滑りやすい場所でも平気なので・・・。

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 薄暗い日陰、良く見ると猫が座って涼んでいるのが見えた。LUMIX G VARIO 14-45/3.5-5.3 (クリックで拡大)

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 滑りやすそうな青竹の上を上手に伝って近ずいてきた。 (クリックで拡大)

 

盧溝橋事件(七七事変)

 明日は7月7日(小暑、月齢13)、新暦で七夕を祝う地方も多いのでここしばらく和やかな雰囲気の画像を交えた各地のニュースが多かった。

 歴史上の出来事を調べてみると昭和12年7月7日(1937.7.7)に北京で盧溝橋事件が起きている。この事件は全面的な支那事変の起点とも言われる。支那事変における戦死者は約8万人に達したとも言われる。(ちなみに日露戦争の戦死は56,000人弱)

 事件が起きたのは7月7日夜、北京市の豊台区で夜間演習中だった日本軍(支那駐屯軍の一部)の兵士一名が行方不明となり、この捜索中に何者からか銃撃が行われた。これにより日本軍と中華民国第29軍との間で緊張状態が高まった。

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 盧溝橋は赤で囲んだ場所に架かっている石橋。北京中心の天安門から豊台区までの距離はわずかに11-12kmしかない。(クリックで拡大)

 さっそく現地軍同士で停戦交渉が始まりまとまりかけたところに、7月11日になって近衛首相は派兵を決定し停戦の機会が失われた。

 その後も日中両軍の間で小規模な衝突が頻発し日本軍の死傷者も発生、関東軍・朝鮮軍などからの兵力増強を受けた支那駐屯軍は、7月28日から総攻撃を開始し30日には北京一帯を占領した。兵力で日本軍の2倍を有した第29軍はあえなく敗退、宋軍長は敗戦責任を糾弾された。(平津作戦)

 事件前の状況を見ると、日本(満州国?)が主張する中華民国と満州国の国境線を巡って双方が対立、1933年になって日本軍は兵を進め万里の長城を超える線まで進軍、戦火の拡大を嫌う南京政府と日本は塘沽協定を締結し国境線は万里の長城線となった。万里の長城と北京との間には緩衝地帯が設けられ不測の事態の勃発を防ぐ事になった。

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 斜線部分が国境の緩衝地帯。(クリックで拡大)

 何故に緩衝地帯の背後の北京に日本軍が居たのか、理由は1901年に清国と列強の間で締結された北京議定書(義和団の乱)に基づいて各国の軍の駐屯が認められていたからだ。日本軍の兵力は議定書の割り当てに準じて1,000人程度で推移していたが、盧溝橋事件の前年に1,500人から5,600人へ増強、砲・戦車も加わり火力は3倍になっていた。

 北京は故宮で日本でいえば京都にあたるような場所、故宮市外に外国軍が司令部を設けているだけでもきな臭いのに、増強して市内へ入って軍事演習を行えば何が起こるかは予想はついていたようなものだが・・・。謀略説も複数あるらしい。

 盧溝橋事件に反発した蒋介石の軍は8月になって上海租界を威嚇し第二次上海事変が勃発、激戦の上の勝利に勢いづいた日本軍は独断で南京占領を目指して西進、見事占領を果たすが、南京政府要人は逃亡した後・・・シベリア出兵の悪夢の再来とも称される点と線の過酷な戦いが始まった。

 この7月7日の近衛内閣の派兵決定は、雪達磨式に戦線を拡大し昭和20年8月までに多くの日本の国民の財産と生命を奪う結果になった。首相の判断て重い。

・当時のマスコミの論調は「暴支膺懲」(いうことを聞かず暴れる中国を懲らしめる)で、膺懲は子供たちの間でも流行ったらしい。「悪さをすると膺懲するぞ!」

・東京裁判における確定訴因10項目の中には「満州事変以後の対中華民国戦争遂行」がある。

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